アンダーグラウンド 村上春樹
オウムサリン事件。それぞれの物語があり、様々な視点から事件が浮かび上がります。日常の中の異常。阿鼻叫喚の世界のすぐ側にはいつもの日常が流れていました。
事件後も被害者は障害を背負っていかなくてはなりません。被害者と私たちの間に何か違うところがあるわけではないというのに。
私が社会人2年目の頃にこの事件がありました。そして後輩の1人が被害を受けました。
カルマ的なものを感じます。
また犯罪を犯した者たちも私たちと変わらない弱い人間でした。戦争で祖国を守るために、正義のためにと殺人を正当化して実行に及んだ兵士たちと似ているように思いました。
軽傷の方は気付いた時には体が正常に動作しなくなっている。意識ははっきりしているけど、足はふらつく。私も経験したことがありますが、その感じは一酸化炭素中毒に似ているようです。嫌悪感を抱くような匂いもなく、静かに蝕まれていきます。サリン、恐ろしい兵器です。
信者にとっては麻原彰晃という教祖の教え、指示は絶対であり、命ですら差し出さなければならない。これを狂気とは呼べないことは、戦時中の政府による国民洗脳の結果を見ればわかることです。今の政権の狂気を感じられないとすれば、あなたは既に洗脳されているということです。
あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度 システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らか の「狂気」を要求しないだろうか? あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか? 私たちがオウム真理教と地下鉄サリン事件に対して不思議な「後味の悪さ」を捨てきれないでいるのは、実はそのような無意識の疑問が、本当には解消されていないからではないのだろうか? 私にはそう思えてならないのだ。
ある精神科医が述べているように、「人間の記憶というものは、あくまでひとつの出来事の<個人的な解釈>に過ぎない」 と定義することもできる。たとえば記憶という装置をとおして、我々はときとしてひとつの体験をわかりやすく改編する。不都合な部分を省き捨てる。前後を逆にする。不鮮明な部分を補う。 自分の記憶と他者の記憶とを混同し、必要に応じて入れ換える。そのような作業を我々はごく自然に、無意識的に行ってしまうことがある。 極端な言い方をすれば、「我々は自分の体験の記憶を多かれ少なかれ物語化するのだ」ということになるかもしれない。多い少ないの差こそあれ、これは人間の意識のごく自然な機能である(要するに私たち作家はそれを意識的に、職業的に行っているわけだ)。そのような可能性はどのようなかたちの「語られた話」の中にも含まれている(かもしれない)という基本的な認識を読者には持っていただきたいと思う。