2012.01.28 Saturday
悟りと願望成就の組み合わせに違和感あり!
JUGEMテーマ:開運・幸運について
本日は第1回悟りと願望成就の実践研究会(仮)を開催しました。
https://www.facebook.com/events/262887243779059/
今回は竹下雅俊氏の宗教学DVDを鑑賞し、その後フリーセッションとして、観想や疑問点を出し合いました。
宗教学講座 初級コース 第1回 受講に当たって
https://shanti-phula.net/ja/video/blog/?p=620
そこで、私が感じたことや考えを(だらだらとm(_ _)m)書いておきます。
メンバーの一人は、悟りと願望実現・願望成就の組み合わせに違和感があると言いました。
悟りと願望成就の間に大きな開きがある。
悟りに禁欲というイメージがある。
なるほど。確かに一般的にはそういう感じ方をするのかもしれません。
元々私たちは一つの光の存在であり、光が光であることを知るために闇の海に飛び込んだ一つの光から分離した分御霊のような存在です。
いつかは自然と闇の海から浮き上がって、光に帰るのです。
私はそう思っています。
したがって、悟りを目指すというのは、意識を進化させたいという魂の願望であり、魂が生まれたときからプリセットされた方向性です。
但し、現世だけで達成できるようなことではなく、何百回、何千回も輪廻転生を繰り返し、少しずつ意識の進化を遂げてようやく達する境地です。
意識的に悟りを目指すことによって進化を加速させることはできるでしょう。
しかし、積み重なったカルマの解消を1回の生で済ませるなんてことは難しいし、カルマの解消なく悟りを開くのは困難である気がします。
ではなぜ、悟りや解脱を目指すといった宗教のエッセンスを研究するのか?
私は基本的に、
霊的(魂)
知性的(メンタル体)
感情的(アストラル体)
物質的(肉体)
に幸せになることを目指すべきだと考えています。
つまり、パーソナリティ(自己)を構成する全階層で幸せであるべきだと考えています。
そして、全階層で幸せを実現するためには、全階層が満足する願望を達成する必要があると考えます。
例えば、たくさんお金を儲けて物質的に豊かな生活を享受することができても、魂の階層でお金の儲け方(人を傷つける等、負のカルマを生成するような行為)に不満があった場合、多分、飢餓感や不安は払拭されることなく、幸せという状態にはならないでしょう。
例えば、悟りを目指し、魂の階層で大きな満足感を得たとしても、無職で食べるものも着るものも無ければ、ただの自己欺瞞の末の肉体の切り捨てとなり、幸せという状態にはならないでしょう。
このように、特定の階層での満足感を追求することがパーソナリティ全体としての幸せに結びつかないどころか、より不幸にしてしまう場合があることを認識すべきと考えます。
宗教はスピリチュアリティ研究の最前線(であった)という側面と、宗教団体としてのエネルギー集約装置の側面を持っています。
宗教は、悟りを開いた(?)人物の弟子がその教えを広めるための集団としての活動から始まります。
ある程度の人が集まると自然と集団論理というか、まるで種としての生命体のように、種を継続するため、より大きく、より強くなろうとする方向性が生成されるようです。
エネルギー集約装置としての宗教は、真理と言えるような高度なスピリチュアリティを餌に、より多くの信者を集め、より大きな権力を集約するための仕組みを構成します。
したがって、宗教団体に属することによって、末端信者はエネルギーを吸い取られるだけってことになりかねません。
端的に言うと私はその餌だけが欲しいのです。
仏教では縁起とか因果という考えがあります。
端的には原因があるから結果があるという考え方です。
私たちの体には全細胞にDNAという設計図が埋め込まれています。身体の一部が全体の設計図をもっています。
一部が全体の相似系であるというフラクタルの考え方に近い感じがします。
多分、この世界は単純な計算式のようなもので構成されています。
ある原因が計算式に投入されると1つの結果を生みます。
次にその結果が原因として計算式に投入され新たに結果を生みます。
そしてさらにその結果を原因として・・・と延々と計算を続けた結果が「今」なのです。
飽くまで私の仮説ですが、もしこの世界が計算式の結果だとすれば、その計算式を修正する、もしくは入力データを変更することによって、世界は変わるということになります。
私はこの仮説を検証したいと考えています。
そのためには、真理を追究した宗教のエッセンスを取り込むというのが最も手っ取り早い方法と考えています。
悟りを得るための方法を実践・研究することにより、真理に触れることができるかもしれないという強い期待があります。
一方で、メンバーの一人はヨガ修行により物質的な欲が失われていって常にハッピーな状態であるものの物質的生活がしにくくなったと言います。
先ほどの例でいうと、自己欺瞞の末の肉体の切り捨てまでは行かないにしろ、近い状態にあったのかもしれません。
では、ヨガ修行が悟りを目指す方法として欠陥があるのかというと、そうではありません。
インドは聖者を輩出するのに最適化した文化を持っているのです。
ヨギ(ヨガ修行する者)と世俗の人々ははっきりと区別され、カースト制度にもあるように僧を優遇します。
ヨギは尊敬され世俗の人々に生活を支えられるという仕組みが成り立っているため、物理階層の欲望を捨て去り、悟りを目指すことが可能なのでしょう。
日本で同じことをやると乞食になってしまいます。
日本にはインドのような文化としての修行者の受け皿なんて、ほとんどないと言っていいでしょうから。
単純に他文化圏で成功した方式を単純に日本に持ってきて適用しても成功することはないのかもしれません。
日本文化に合わせ、換骨奪胎の上、実践する必要があるようです。
霊的(魂の階層)に特化することなく、精神(感情・知性)的にも物質的にも豊かにならなくては、現代の日本社会では受け入れられないでしょう。
今回、意識の階層や進化段階があることを宗教講座で知った訳ですが、これは人としての意識の進化ルートや世界地図を入手したことになるのかもしれません。
あまりに広い世界の極一部の狭いところに住んでいる私たちが、今後、高次の世界に住む神や仏や天使とどのようにつながっていくのか、楽しみなところです。
悟りを目指すのは私にとっては自明のこと(無意識的には最初から悟りを目指している)ではあるのですが、ある程度理解しているはずの参加メンバーでも強い反応を示していると感じました。
一般的には悟りを目指すことと願望実現は逆方向のベクトルを持つと受け取られるということでしょう。
でも、宗教講座の最後に竹下氏が言ったように、「宗教なんて本当は知る必要もないものであり、それより日常生活のなかで心を清らかに保って生きることの方が重要」なのです。
逆にいえば、実生活を過ごしながら悟りを開くのは可能なのだということを示していると私は理解しています。
この世俗世界を生きることこそ修行そのものなのだと思います。
修行という意味では、ヨギや密教の修行僧は恵まれた環境にいるのですが、恵まれた環境ゆえに修行になってないかもしれません。
その辺りのことは、今後、宗教講座を受講していくことで判明していくものと思います。
それにしても、一般の方々に違和感を覚えられる名称は変更したほうが良さそうです。
なんだかんだ言ったところで、本当のところは、悟りや宗教学の研究は私自身の知的欲求を満たしたいというのが最も大きな要因だし(笑)
さて、どんな名前にしようかしら?
以上、ありがとうございました。
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